太平洋の価値判断【12.3追記】
2017年夏
私が大学二年生の時のこと。
当時の私は、『大学生というものは夏休みの間にドストエフスキーの小説全作品を必ず読み切らなければならないのだ』という考えにハマっていました。
なんでも芥川賞作家の大江健三郎とかいうお偉い極左のおじさん(偏見)が、なにやら20代・30代・40代の各10年それぞれの内に、必ずドストエフスキー全作品を読んでいたという話がある(らしい)のですが
その事実を
どこからか聞きつけた当時の私は、
大学在学中に芥川賞をとった(らしい?)その大文豪の異彩な行動を真似ようとして、『虐げられた人々』というドストエフスキーのデビュー作品を、とりあえずAmazonでポチったのでした。新潮文庫でした。
今思うと
せっかくドストエフスキーの小説を読むくらいなら、要点と感想をまとめてYouTubeにビブリオ動画をアップする!くらいの目的意識を持って読み進めたら面白かったのかもと思います。
なのに、当時のわたしは、ただ偉い人の行動を真似た時の自分の感覚ってワンチャン深見沢深し?!くらいの心積りで、ドストエフスキーを読み始めていました。
しかも、その行為の実行者ですら"10年単位"で行うワイドスパンの企画を、素人の自分は"夏休みの間"というせいぜい2ヶ月程度の期間で実行しようとしていました。
この当時の自分の無計画さと
ドストエフスキーへの舐めプっぷりを思うと、とても胸が苦しくなります。
その計画が始まって間もなく頓挫するまでの様を記すのはまたのことにして、ドストエフスキーを買おうとしてAmazonでポチった時、ついでに買った1冊の本がとてもいい本だった、そしてその時の自分は、プラン・ドストエフスキーそっちのけでこの本にのめり込んで読んだものだったという事実が、今回の価値判断の対象。
以下『太平洋の防波堤』冒頭文章の一部
《・・・したがって、ある思いつきというものは、死にかけた馬を使ってすべてがちぐはぐに運ばれようとも、それが何かを動かす以上はよい思いつきなのだ。したがって、こうした種類の思いつきというものは、万事が痛ましい失敗に終ろうと、その時はその時で少なくとも、自分の浮かべる考えはろくでもないものだと思い続けているうちは絶対に起こらないような、果断な処置をとる気が起こることもあるのだから、常によい思いつきとなるわけだ》
マルグリット・デュラス 河出書房新社。1950年。
"よい思いつき"
たしかに、これは真実でした。