My Foolish Heart

ー 大事を小事の犠牲にしてはならない。

人間の価値判断【12.3追記】

 

 感情的になる前に

 ある本のある文章から長めの引用を以下に記します。

 

 《あの二人のフェアリーは、その後どうなったことだろう?たぶん、結婚したであろう。そうだとしたら、彼女たちは、変わったであろうか娘から女に移ると言うことは極めて重大なことなのに。新しい家の中で、彼女たちは何をしているだろうか?雑草や蛇を相手の彼女たちの友情はどうなったことだろう?あの頃彼女たちは、何か宇宙的なあるものに関与していたのであったのに。ところが、やがて一日、娘の中に女が目覚めるのだ。すると、しきりに十九点がやりたくなる十九点が、心の奥の重荷になる。すると、そこへ、ばか者が一人現れる。すると、あのように鋭かった眼力が、生まれてはじめて見誤って、そのばか者に美しい光を投げかける。そのばか者が、もし、詩を口にすれば、彼女はさっそく、彼を詩人だと思い込んでしまう。そして、彼が穴だらけの床板を理解すると信じ、彼がファラオン鼠を愛すると信じ込んでしまう食卓の下の自分の脚のあいだで、蛇が尾を振るほどの心安立てを、彼が嬉しがっているものと思い込んでしまう。そして天然の花園のような自分の心までも彼に与えてしまう人工的な手入れの行きとどいた花園しか愛しえない彼に。こんなことで、そのばか者が、王女様を奴隷にして連れて行ってしまうというわけあいになる。》

 サン=テグジュペリ『人間の土地』P90・91(新潮社)

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 思うに

 本来この文章が表現しようとするのは、自然の摂理というか、もう少し意味合いを持たせるなら不可抗力な事象だとか抗い難い人類の原理だとか、(以下、成年の主張)

 

 そういったものに対する一人の人間の諦念だと思われます。

 ただ、私はこの《諦め》という概念を美しく形付けた文章を読むことで、筆者が想定する範囲よりも外にある難局において、何度となく救われた気持ちを起こしてきたように思います。本文の中で多く出現する独特な固有名詞や場所や数を、自分の場合はなんだろう?と考えながら読み進めて。

 現に今日も久しぶりに読み直してみて、こんなこと書いてみようという気にもなれました。

 

 ちなみに

 難局というのは、言ってしまえばあまりに個人的で馬鹿馬鹿しい類の感傷、言い換えれば、失恋と呼ぶのも疑わしい失恋、あるいはあの子俺のこと好きかもだったけど彼氏と思しき男と街歩いてるとこ見かけちゃったがっかり

 

 

 何度目の青空か?

 性懲りも無くどんよりと感情に浸って、何日も身動き取れなくなる前に、自分の感情を抑えつけてくれただけで、既に価値があったといえるでしょう。

 

 


 ところで

 筆者のサン=テグジュペリ戦闘機パイロットで女性にはモテモテでありながら、ニーチェ読みまくりの無心論者アナーキストと言っても過言ではないほど左に傾き気味の知識人だったという。(前半は事実、後半からは事実だったか定かでない私の記憶。)1930年代が、彼の20代だったはずです。


 彼の作品(人間の土地夜間飛行南方郵便機星の王子さまの四作品)を各3回以上読んでいる私からすると、彼の思想はモテないインキャ男子(私のような)が冴えない日々に対する溜飲を下げるために相応しい他に類を見ない魅惑のソルーションだと思われます。

 ものごとを勝ち負けで見て悲しむのではなく、ものごとの摂理・自分では抗いようのない事象を認識し、そこに勝敗という観念など入り込む余地のないことをまず前提とします。そしてその角度で自らの意思を選択し、諦めるのです。そうすると、そこに悲しみが入り込んでくる余地はありません

 個人的には星野源(敬称略)っぽくもあると思います。

 

 

 

 さて、9月。

 たくさん寝るぞ〜。